先住民を訪ねて - 1:ホピの国
(ホピ族居留区、アリゾナ、アメリカ合衆国)

南西部の旅で、もっとも心動かされた場所、それが「ホピの国」です。

アリゾナ北部、乾燥した半砂漠地帯にあるホピ族の居住区は、「ホピの国」と呼ばれています。

標高1500m、乾いた、岩がちの平原から、いくつもの台地が屹立しています。緑は限られ、大地も斜面も、黄土色が勝っています。

平坦な台地の頂上のうち3つが、昔からの居住地で、ファースト・メサ、サカンド・メサ、サード・メサと呼ばれています。サード・メサにあるオライビは、人の住み続けている集落としては、アメリカでもっとも古い場所で、12世紀半ば、新大陸の発見される前に遡ります(タオス・プエブロもアメリカでもっとも古い現存する集落を標榜していますが、どっちが元祖なんでしょう)。

いちばん狭い台地、ファースト・メサは、長さ2キロ、幅はもっとも広いところで50メートル程度、狭いところで3メートル。両側は、急崖で平原に落ちて行きます。ファースト・メサに3つある村、ワルピ、シチョモビ、テーワのうち、旧状を残すのが、先端の村ワルピです。

崖下から集めた石を積んだ家が重なり、台地の岩山が、そのまま家と一体となったような、21世紀のアメリカとは信じがたい集落風景です。一部の家では、古いものは土を、新しいものはスタッコを塗り上げ、その風貌は、モンテスマ・キャッスルに似ています。

そんな独特の文化を維持している地ですが、それにもかかわらず、ここを訪れた人の多くが感じるのが、閉塞感ではないでしょうか。

台地の上が選ばれたのは、コロンブス到達以前、他の種族との争いから身を守るためであり、アメリカ政府に追い込まれた訳ではありませんが、自立した文化を持っていた人々が、異なる文明との接触で、バランスを壊して行った様を見るようです。

今は、平原にも村がありますが、これは、16世紀以降、スペイン人の宣教師やアメリカ政府が、宗教や教育という形で入り込んだことに始まるようです。ホピ族の伝統を守る守旧派と、新しい波を受入れようとする改革派の内部対立で、一部が、台地を下りて、平原に新しい集落をつくりました。

そういう微妙なバランスは今も続き、平原には、冷凍食品から生鮮食料品、ファストフードまで売るスーパーマーケットがある一方で、ワルピには、いまだに、電気も水道も届いていません。トイレは、小さな小屋を、崖際に点々と設け、崖下に汚物を落として自然乾燥処理しているようです。

わずかな雨に頼るだけの細々とした農業。幹線道路から外れ、一般受けする場所ではないので、大きな力とならない観光。若者の多くが村を去り、残された者には、公共サービスか、規模の見込めない農業、民芸細工しか、選択肢がありません。伝統と文明化のせめぎ合いの中、伝統に籠もることも、大規模な近代的技術の導入もできないまま、方向を見定められない状況です。

ホピの国を通過すると、アメリカとは何なのだろう、と考えてしまいます。

人種差別というよりは、西洋文明の文脈から外れた者に対する非寛容が、アメリカの本質に見えて来ます。一見、啓蒙や改善という好意で近寄って来たアメリカが、彼らを囲い込み、分断し、喪失させて行きます。これがアメリカという強大な力でなかったら、ホピ族のあり方も、もっと活き活きとしていたのかもしれません。

機械で岩山を切り崩したような荒涼とした自然の風景は、はるか昔からだとしても、今は、喪失感の強い、彼らの心象風景そのものに映ります。

南西部の旅ですれ違ったアメリカ市民は、驚くほど温かく、親切でした。ただ、温かさは、小さなスケールと、巨大なスケールでは、意味が変わります。ホピ族を追い込んだのも、実は、アメリカ人の温かさの肥大した姿だったのかもしれません。

ホピの国では、写真やメモが、禁じられています。今回、写真のないのは、そのためです。

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交通
フェニックスから車で約4時間。フラッグスタッフから車で約2時間。

リンク
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Hopi Cultural Center
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参考文献
Wikipedia

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