弘前と前川國夫 - 6: 
弘前市斎場(弘前、青森、日本)

弘前の防塁として設けられた長勝寺構の寺町を過ぎ、高台から坂を下って行くと、城下町の気配は消え、少しずつ町外れの空気が濃くなります。道沿いにリンゴ畑も現れ、やがて坂を下り切ると、行き止まりに、弘前市斎場が見えて来ました。前川國男の弘前での最後の作品です。

杉林に囲まれ、視界のあまり開けないこの場所への、城下町からの長いアプローチ自体が、夏の明るい日でも、黄泉の国へ下って行くような寂しげな印象です。

斎場には、家族の辛さにふさわしい重々しさを表現したものと、その辛さを和らげる優しさを表現したものがあるように思いますが、この弘前市斎場では、重々しさから優しさへ、建築が少しずつ移ろって行きます。ここを訪れた人の哀しみと向き合いながら、初めは、その人自身が、身体を振り絞っても表現し切れない哀しみを、建築が代わって表現し、やがて、その哀しみを優しく包んで行きます。

煉瓦タイルの壁に濃灰色の特殊鋼板の屋根の静かな佇まいの外観。その車寄せの軒をくぐると、巨大で重厚なコンクリート打放しの格子梁が、頭上に現れます。屋根勾配に合わせて、梁は、低い軒端から場内入口に向かって上昇し、対角線で折れる屋根形状に合わせて、中折れしています。屋根を支持する構造形状も、その屋根の荷重や長い柱間で決まる大サイズの梁も、恣意的に加工したり隠蔽せず、むき出しのままです。勾配に沿って、すべり落ちて来るような重さが、下を通って行く者に、ずしんと響きます。建築が、ここを訪れる者の辛さを表現し、受け止めようとしているようです。

モダニズムを出発点としながら、次第に建築の方法論を修正して行った前川國男が、その晩年、構造をダイレクトに表現しながら、そこに現れる空間の質を、軽さや明るさを目指していたモダニズムとは、まったく正反対のものとして現出させています。アンチテーゼというよりは、モダニズムの思い込みの修正、すなわち、ダイレクトな構造表現がつくり出す空間の質には、重さや辛さもあることを示しているようです。

室内に入り、炉前ホールまで進みます。6つの炉は、津軽の霊山、岩木山から採り出した溶岩を加工したものだそうで、どっしりとした巨大な量塊に、はつり仕上げが細やかな陰影をつくります。窓の上の壁と、方形屋根に合わせて斜めに上って行く天井は、曲面加工の板で一体となり、大きな暗い空のように、ホールを包みます。そこに炉と天井の隙間に隠れたトップライトから、遠い光のように間接光が入り込み、天井をぼんやりと照らします。それまでの重々しさが少し和らいで来ました。

炉前ホールと向かい合わせの収骨室のトップライトは、津軽で死者の魂が返るという岩木山の方角を向き、魂の向かうべき場所を光が暗示します。

式を終えた遺族は、渡り廊下がつなぐ待合室棟へ移ります。空間は、構造的表現や特殊な仕上も消え、ふつうのシンプルなつくりに変わりました。

和室の個室が、大きな待合室を囲み、岩木山のある北西に開いた待合室の広い窓の前には、静かな日表の庭の風景が広がります。方角的に日差しもあまり入らず、小山と木立の庭は、遠くまで開けず、ひっそりと外の世界につながっているだけですが、津軽の人々は、岩木山を思い、最後の別れを実感するに違いありません。そして、ようやく落ち着いた遺族に対して、哀しみの先にある戻るべき日常、すなわち、岩木山に守られ、その前に広がる現生の世界を指し示す場所にも見えました。

英語版へ移動する

Google Maps で場所を見る

交通
弘前駅から西目屋、相馬方面行きバスで20分(1時間に1、2本)、茂林町長勝寺入口で下車。徒歩30分。

リンク
弘前市役所

弘前観光コンベンション協会
弘前総合情報RIng-O Web

宿泊施設のリスト
弘前市旅館ホテル組合

参考文献
"前川國男と弘前" (A haus2005年1月号、A haus編集部、2005)
"建築家前川國男の仕事" (美術出版社、2006)
木村産業研究所展示

Upload
2018.01 日本語版の文章、写真+英語版の写真

Update 

← previous  next →

Copyright (C) 2010 Future-scape Architects. All Rights Reserved.
無断転載は、ご遠慮いただくようにお願いいたします。

← previous  next →

弘前市斎場(1983)

        Photo by Daigo Ishii