弘前 近世の建築:
革秀寺(弘前、青森、日本)
津軽藩初代藩主、津軽為信の霊屋のある革秀寺は、弘前城の西、城から岩木山を結ぶ線上に位置しています。慶長14年(1609)に、二代藩主信枚が建立したという説もあれば、長勝寺の貫首の隠居所を、為信の死を期に、移転したという説もありますが、いずれにしても、城の完成と相前後する時期であり、風水と結びついた城づくりに、大きな役割を担ったように見えます。
革秀寺を訪れたのは、まだ肌寒い春の日のこと。岩木川を渡り、対岸にある集落を抜けると、大きな蓮池が現れました。その奥の山門を抜けると、前庭が開け、白砂利の向こうには、のどかに立つ本堂と庫裏。散り始めた桜は、初雪のようにうっすらと積もり、身が清められます。春の美しい寺です。
桜の背中には木立が広がり、石畳を進むと、その奥に、霊屋が隠れていました。周囲を、芝の土塁で囲み、さらに、塀と門を設え、その中に鎮座しています。土塁は、川が近いため、水害対策を兼ねたとも、二重の護りで、為信を、近づきがたい特別な存在にまつり上げようとしたとも解釈できます。
と言っても、花の舞う下で見たからでしょうか、ものものしい印象はありません。塀と門だけなら、高い木々に負けて、霊屋も心細く見えたところを、程よい高さの、緑の囲いが、回りの気配を柔らかく遮断し、自立させます。土塁の内側が、不思議と心地いいのは、薄暗い森の記憶が遠ざかったからでしょうか。
霊屋は、石の基壇に、一間四方の建屋を組み、四隅を、頂部に金襴を巻いた円柱で押さえています。屋根は、柿葺の入母屋造りで、正面には唐破風。
外壁を風雨から保護する板囲いで、分かりにくいのですが、平面に対して、立ちが高く、その上に大きな屋根が被るため、頭でっかちなバランスです。
その扉から壁、屋根にいたるまで、埋め尽くされたのが、桃山風の装飾の数々。正面には、黒漆の地に、金の家紋と、顔料で四季折々の草花を描いた扉。脇から後部までは、朱色で壁が回り、各面の中央に、津軽家の家紋が、いっそう大きく金で記されます。欄間には、花鳥風月が舞い、組物は、鮮やかな色遣いの花弁や雲の文様で覆われて行きます。
内部は、中央に宝篋印塔を安置して、三方の壁に、49枚の板卒塔婆が巡ります。目を上げると、欄間には、白地に、鮮やかな青、緑、赤、えび茶の雲。青地に切り替わった天井には、桃色と白の雲が浮かび、その合間を、天女が優雅に漂っています。
華やかな意匠の密度といい、精度といい、藩祖を祀るにふさわしい建築です。ただし、この極彩色の意匠のほとんどは、文化年間(1804〜17)の大修理の際のもので、建設当初は、かなり質素なものでした。そして、建立の際の供養に遡る板卒塔婆も、改修までは、外壁を覆っていたというから、その姿は、庵や村のお堂に近かったのかもしれません。
霊屋の改修も、弘前城天守閣の再建も、同じ文化年間のこと。津軽藩の正統性をゆるぎないものにするためには、城とともに、岩木山に向かう線上にあるこの霊屋の改修も不可欠だったのかもしれません。そうやって、城から霊山に到るラインが強化されると、それが、また、弘前城と町へフィードバックされて行くのです。
霊屋とともに、国の重要文化財に指定されているのは、慶長15年(1610)頃に建立されたと伝わる本堂。茅葺きの、田舎びた外観は、寺というよりは、津軽平野の民家を思わせます。雪の多い気候のため、濡れ縁の代わりに、内土間が走り、その内側に、広縁が続きます。
全体的に、禅宗(曹洞宗)らしい質素な印象ですが、中央の仏間の、欄間や扉に施された桃山風意匠は、かすかに場を浮き立たせ、本堂の奥に取り付く為信の位牌堂は、壁を金で仕上げ、古くは中尊寺の金色堂から、新しくは弘前近郊の盛美園にある御宝殿まで、東北の地に点々と残る金色の文化とのつながりを連想させます。
交通
弘前駅から藤代行きバスで25分(1時間に1〜3本)、向駒越で下車、徒歩5分。
リンク
革秀寺
寺の行事がない時のみ、事前予約で見学が可能。
弘前市役所
弘前観光コンベンション協会
弘前総合情報RIng-O Web
宿泊施設のリスト
弘前市旅館ホテル組合
参考文献
「青森県の歴史散歩」(青森県高等学校地方紙研究会編、山川出版社、2007)
あおもりの文化財
文化遺産オンライン
Wikipedia
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