種差海岸と蕪島 - 1
(八戸、青森、日本)
近年、再評価のめざましい絵師、吉田初三郎。活躍した大正から昭和初期に掛けての全盛期には、「大正の広重」と称されました。
日本に近代的な旅行観が根付くに際し、観光地や沿線の案内を、デフォルメした鳥瞰図で描く彼の絵が、さまざまな媒体を通して広がり、旅行ブームを牽引しました。鳥瞰図の数、サハリン、北海道から九州、台湾、朝鮮まで1800以上。画家を志したものの、恩師の言で、現在の広告に近い商業美術の世界に飛び込み、成功を納めました。
日本中を回った吉田初三郎が、種差海岸を訪れたのは、昭和7年(1932)、八戸市の依頼で、鳥瞰図製作の調査に来た際のことでした。彼は、「ここは日本八景の室戸(岬)や、海金剛にもまさる勝景地」「本邦第一の処女地海光美」と評し、陸奥金剛と名付けました。リップサービスかと思いきや、別邸兼アトリエの「潮観荘」を、昭和10年(1935)にここに建設し、昭和28年(1953)に焼失するまで、活動の本拠としました。そして、招いた皇族や名士の人脈を通して、名を広めることにも貢献しました。種差海岸が国の名勝に指定されたのも、八戸市長の神田重雄が、初三郎の言を受けてのことで、一人の絵師が、この海岸の「発見」に大きく関わったのでした。
吉田初三郎の例えに登場した海金剛とは、朝鮮半島東部、現在の北朝鮮に位置する名峰金剛山が、日本海とぶつかり、つくり出した奇岩の連なる景勝地で、東洋一の海岸美と詠われました。種差海岸にも確かに奇岩の続く部分がありますが、同じく海金剛に因む石川県の能登金剛と比べても、穏やかでミニチュア化された印象です。そして、出入りの複雑な奇岩の海岸の間には、そういう荒々しさとは対照的な、緩やかな弧を描く白砂の浜や、穏やかな起伏の天然の芝地が挟まれ、強いだけの海岸美とは違う多様で変化に飛んだ風景が、種差海岸の特徴なのです。
種差海岸は、三陸リアス式海岸の北端に位置し、八戸線の大久喜駅近くの弁天島から、蕪島まで、約12キロ続きます。暖流と寒流のぶつかる地であるため、ここが北限南限となる植物も多く、植生の上でも、北と南の接点のようですが、全体的印象としては、北海道よりは、関東あたりに通ずる、南から来た風景の終着点に感じました。
種差海岸ならではの見事な風景は、種差天然芝生地です。日本の海岸で、これだけの天然芝が広がる場所は、なかなかないのではないでしょうか。春から秋に吹く東風(こち)の影響で、夏も高温になりにくい、この地の気候が幸いするのか、刈り取り機を入れた訳でもないのに、芝生は伸びすぎず、適度な長さを保ち、歩きやすく、いい踏み心地です。ただ平らでもなく、心地よいゆったりとした起伏に、散歩していると、伸びやかな気分になって来ました。吉田初三郎が「潮観荘」をこの地に設けたのも肯けます。
北に進むと、大正4年(1915)、地元青年団が、魚付と防風のために植林した1万本のクロマツの向こうに、岩の点在する磯が見え隠れする「淀の松原」、「深久保漁港」、夏には海水浴場となる白砂の「白浜」、海岸には珍しい高山性や草原の植物も含めて、春から秋に掛けて花々が咲き誇る渚「中須賀」、南部藩の時代、馬の広大な放牧地だった丘の先端にある「葦毛先展望台」と続きます。
昭和28年に地元小学校の校歌の作詞依頼で訪れた佐藤春夫は、「種差海岸は、海岸美と山岳美を打って一丸としたともいうべき、ちょっと想像に絶した風景であった。(中略)思いのままになるなら、あの松原のはずれのあたりにせめて春から夏の末ぐらいまで住んでみたいような空想までした」と、「淀の松原」について残しました。
散策路は、葦毛崎で終わり、ここから蕪島までは、車道を歩くことになります。この辺りまで来ると、種差海岸の北に広がる工業地帯の風景が遠景に入り込んで来ます。今の種差海岸は、自然と都市の接点となる地でもあるのです。吉田初三郎は、今の風景を、どう描写することでしょう。
交通
八戸駅からJRで30分(1−2時間に1本)、鮫で下車。または、JRで40分(1−2時間に1本)、陸奥白浜で下車。そこから、徒歩で海岸沿いを歩く。
リンク
八戸市役所
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八戸観光コンベンション協会
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八戸市の宿泊施設
参考文献
"吉田初三郎と八戸" (八戸市博物館, 2006)
"吉田初三郎の鳥瞰図を読む" (堀田典裕, 河出書房新社, 2009)
"八戸ポータルミュージアム はっち 展示" (八戸ポータルミュージアム, 2011)
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