弘前 近世の建築:
高照神社(弘前、青森、日本)

津軽の霊山、岩木山の山裾に、高照神社は立っています。岩木山神社から徒歩20分、四代藩主津軽信枚を祀るために建立されたこの神社も、革秀寺同様、弘前城から岩木山を結ぶ線上に乗り、弘前の風水的計画学の中に位置づけられていると言われます。

高照神社を訪れる人の多くは、岩木山神社のついでに立ち寄るのでしょうが、先に、こちらを訪れた方がいいかもしれません。同じように重要文化財に指定されていますが、岩木山神社の華やかな意匠を目にしてから、ここを訪れると、大抵の人は、かなり地味で、味気なく感じることでしょう。入母屋造りで、朱に塗られていると言っても、派手な装飾は少なく、建築も小振りです。

しかし、実は、岩木山神社のような意匠をまとった神社は、日本の他の地にも残りますが、この高照神社こそ、そのつくり方の特異さで、他に例がないのです。

鳥居から本殿、墓所まで、すべての要素が、一直線状に配置されているのが、その特異なところ。祭神の一人である信政の信奉していた吉川神道に基づいて、つくられたものです。

信政を祀るために、五代藩主信寿が造営を始めたのが、信政の死の翌年、正徳元年(1711年)。建設は、その後、9代藩主寧親の代まで100年の間続き、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居、随神門(文化7年-1810年)、四の鳥居、拝殿(宝暦5年-1755年)、中門(正徳2年ー1712年)、本殿(正徳2年ー1712年)、廟所(正徳元年ー1711年)、墓(宝永7年ー1710年)が、ほぼ東西軸に乗って、400mも伸びる構成となりました。

会津にあり、吉川神道に基づいてつくられた土津神社が手本です。その会津の地では、土津神社の祭神、保科正之の子孫を祀った松平家墓所に、吉川神道の名残をとどめるのみとなり、神社として現存するのは日本でここだけとのこと。

吉川神道を、詳しく理解している訳ではありませんが、朱子学と結びついた神道だそうです。朱子学は、論理的な秩序体系を重視したから、幕政における、上下の身分差の厳格化を、吉川神道が後押ししたのも、むべなるかな。それを空間に応用すると、曖昧さを廃し、原理を明確化したような配置が生まれたようです。

ただし、朱子学は、苛烈な適用を強要しがちな思想ですから、建築化においても、直線状配置だけでなく、厳密さが隅々まで浸透しているのかな、と思いきや、仔細に眺めると、そうでもないのです。

装飾が限られて、簡素に見えるところは、確かに原理的ですが、例えば、軸線の石畳が微妙にぶれていたり、その石畳自身も、方形ではなく、乱張りの石で仕上げていたり、拝殿の破風の美しい花模様の透彫が対称を外していたりと、細部が強さを和らげます。奥の廟所から、配置に沿うように流れていた小川は、三の鳥居の手前で、強い軸を破るように、参道を斜めに横切り、境内を包む森では、木々がアトランダムに広がっています。

どこまで原初のままかは分かりませんが、乾いた気候の石の文化圏における抽象性に比べて、雨の多い木の文化圏における抽象性は、つねに対称性を崩すような腐朽の問題や、旺盛な繁茂力とも隣り合わせで、どこか甘くなりがちなのかもしれません。それが吉川神道の、朱子学側ではない神道側の側面にも見えて来ました。

吉川神道は、江戸時代、神道の大きな勢力となり、一族は幕府寺社奉行の神道方まで務めましたが、それだけの力を持った神道の神社の遺構が、今はここしかないそうです。権力を支える思想に基づく原理的な神社は、情緒的な庶民の共鳴を得ることができなかったということなのでしょうか。

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交通
弘前駅から岩木山神社、百沢、枯木平方面行きバスで40分(1〜2時間に1本)、高照神社南口、または、高岡で下車。

リンク
弘前市役所

弘前観光コンベンション協会
弘前総合情報RIng-O Web

青森県観光情報サイト
あおもりの文化財
文化遺産オンライン

宿泊施設のリスト
弘前市旅館ホテル組合

参考文献
「青森県の歴史散歩」(青森県高等学校地方紙研究会編、山川出版社、2007)
あおもりの文化財
文化遺産オンライン
Wikipedia

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高照神社(1711-1810)

        Photo by Daigo Ishii