斜陽館から徒歩10分、街並の中に埋もれるようにして、「新座敷」が立っています。太宰治の兄で、新婚の文治夫婦のために、大正11年(1922年)につくられ、後に、太宰治が一時的に暮らした家です。街区を大回りして歩いて行くので気が付きませんが、実は、元々は、街区の中央を津島家の大きな敷地が横切っており、その西端が斜陽館、東端がこの新座敷だったのです。
竣工当時は、離れとして、現在の斜陽館に隣接しており、文治夫婦が父の死で家を継ぐまでの短期間暮らし、昭和20年から21年の間、空襲に遭った太宰治が疎開したのも、その場所にあったときの話です。
戦後の昭和23年、農地改革や地主制度の変化、そして、文治自身の青森県知事選への出馬の資金の手当から、斜陽館を手放す際、この新座敷だけを切り分けて、敷地の東端に移したのです。その後、所有者が変わり、10年ほど経って、今の持ち主に渡りました。
移設で敷地の高低も変わって、建物の足元周りは変更されているようですが、室内は、塗り壁の色を除けば、当時の様子をかなり残しているそうです。小屋裏から見つかった大正13年の棟札で確認できますが、つくったのは、斜陽館を設計した堀江佐吉の息子であり、斜陽館の棟梁でもあった斎藤伊三郎です。
つくりはシンプルで、窓のデザインや、戸棚の扉に刻まれたハート型の模様、和室の照明器具と雀の浮彫りに、ほのかにアールヌーボーやアールデコを意識した気配が漂います。今は東京都庭園美術館となった朝香宮邸の、和風とアールデコの結びついた部屋をどことなく思い出しました。擬西洋建築の大向こうを狙ったつくりからは遠く、家庭的で穏やかな、和洋が無理なく結びついた空気に満たされています。
少女趣味にも見える細部は、時期からすると、竹下夢二などの大正浪漫派とのからみもあるのでしょうか。
現在の持ち主のお話によれば、津軽に戻って、新座敷で暮らしたのを機に、太宰治と兄文治の関係も修復され、そういう良好な状況が、ここで書かれた作品に反映されたとのこと。洋室は、太宰治を訪ねる文学青年たちのサロンとして、にぎわったそうです。母屋に比べ、軽く明るくこぢんまりとしたこの建築の空気も、太宰や訪れる人の気分を、いくぶん開放的にしたのかもしれません。
交通
五所川原駅から津軽鉄道で25分(1時間に1本程度)、金木駅下車。徒歩5分。
リンク
新座敷
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