青森のお祭り:青森ねぶた - 2
(青森、青森、日本)
津軽のねぶたの始まりには諸説あり、夏の暑い盛りの農作業の際の眠気を払う行事として七夕の日に行われた「眠り流し」が有力ですが、眉唾とは言え、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に、こけおどしでつくった灯籠や、京都滞在中の藩主、津軽為信が、文禄2年(1593年)の盆の際に披露した大灯籠が起源との説もあるようです。
ねぷたが文献に最初に登場するのは、享保7年(1722年)の弘前藩庁「お国日記」の弘前ねぷた。その後、江戸住まいの津軽藩士、比良野貞彦が津軽の風景を記録した「奥民図彙」(天明8年ー1788年)に描かれた、弘前ねぶたの小さな灯籠の数々は、現在の弘前ねぶたを思わせます。
青森のねぶたが、文献に明確に登場するのは、天保13年(1842年)。その頃のねぷたは町内単位で行われていたそうです。
幕末には、大型の灯籠が登場し、明治に入り、形も複雑になり、武者の形などに変化して行きました。高さ方向に伸びた時期もあり、明治3年(1870年)には、高さ20mのねぶたが登場したというから、それは、五所川原の立佞武多そのもの。
一人ねぶたが人気を集めた時代もありましたが、第二次世界大戦後、現在のような、大きなものとなり、担い手も町内から企業に移りました。
県庁所在地ゆえ、支店を置く企業の支援も盛んで、住民主体の弘前に比べると、山車の華やかさも際立ちます。だから、軽鉄や木材、竹、針金を組んで複雑な型をつくり、ふつうより厚めの和紙を張った山車の費用は、1台2000万円とも囁かれます。
高さを競った時期があったとは言え、現在の青森ねぶたは、通りを渡る信号や電線の下を、操作なしにくぐり抜ける高さに抑えています。弘前のねぶたや八戸三社大祭のように、山車の一部が倒れたり、昇降することもなく、青森の都市景観に素直に従った形です。
高さに代わるのが、水平方向の広がり。最大で、幅9m×奥行7mとなる広がりが、青森らしさ。とは言え、本番の巡行ルートの大通りは問題ないものの、巡行後、ねぐらに戻るねぶたを見ていると、一般道の向かい合う電信柱の間を通り抜けるのがぎりぎりです。青森でも、都市景観が、デザインの拠り所となっているのです。
そうは言っても、制限寸法一杯までつくりたくなるのが人情。見ていると、通り抜けられず、腕がもげたねぶたもありました。道路中心とねぶたの中心がちょっとずれるだけで、通り抜けに支障をきたす、最大限のボリュームでつくるからこその迫力であり、都市景観とのせめぎ合いを簡単にあきらめない組が、勝負を制するのでしょう。
それにしても、日が落ち、複雑な造形が、中から照らし出されると、その立体感は、今にも飛び出しそうです。水平的な特性で、他の町以上に、4方向からの見えを意識してデザインするため、見る角度による変化も大きく、そこに、動きが加わるから、いっそう動的となります。
俗説とは言え、確かに、相手方がこんな灯籠を準備して攻めてきたら、予備知識のない下っ端は退散しますな。
交通
青森駅から徒歩7、8分。
リンク
青森ねぶたオフィシャルサイト
宿泊施設のリスト
青森市旅館ホテル組合
参考文献
"青森県の歴史散歩" (青森県高等学校地方史研究会編, 山川出版社, 2007)
"図説青森県の歴史" (成田稔・長谷川成一, 河出書房新社, 1991)
"弘前ねぷた速報ガイド2011" (路上社, 2011)
青森ねぶたオフィシャルサイト
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